人の後ろに隠れた動機付け
こんにちはー
しばらく間が空いてしまいましたが、只今暇なので投稿したいと思います。
人が何かを判断する時、どうしても目に見える情報だけで判断してしまう気がします。
それこそこの前私が考えていた残業についても、実際にどのような条件で状況で環境でどのような仕事を残業としてしていたのか、それぞれ具体的事案に沿らないと判断できない思います。
それにもかかわらず残業は良くないと決めつけるのは我々がそのバックグラウンドについて無知であり、経験則に基づく残業のイメージで判断しているからだと思います。
「この人のためだったら尽くせる」と思えたりすることだってあると思います。
その感情に基づく残業であれば、イメージも悪くないと思います。
例えば接客業でその日はやる気が感じられず、無気力になっている人がいた時。
普通は「なにしてるんだ」とか「やる気ないなら帰れ」とか思うはずです。
しかし、その人が無気力な原因が前日に両親を失ったことが理由だったら?
少しは同情するかもしれませんね。
もちろん仕事にプライベートな理由を持ち込むのは良くないことです。
ただ、その目に見えない情報を知っていたら、アプローチの仕方も多少は変わっていたはずです。
正直、そんなとこまで見ることは非常に難しいですし、キリがありません。
しかし、そこを意識するのとしないのでは少しではありますが、人間関係が円滑になったり、不満やストレスが解消されたりすると思います。
その人の後ろに隠れているなにかを感じとることができれば楽しい人間関係が築けそうな気がしますね(^^)
大事にしてる考え方
こんにちはー
2016年も残すとこ2ヶ月になりましたね(^^)
今日は私が大事にしている考え方について。
私は常に前進することを大事にしてきます。
どうしたら前に進めるのかを常に考えるようにしています。
そして、この考え方をみんなにしてほしいと思っています。
例えば何か失敗をした時。
誰が悪いとか何が悪かったとかは皆さん考えると思いますし、分かると思います。
しかし、原因を見つけたところで何も変わらない。
もちろん原因がわからないと次にも繋がりませんが、重要なのはここではなくて「どうしたら次成功するか」を考えることだと思っています。
できない理由をさがすのではなく、どうしたらできるかを考える。
自分のことだけではなく後輩、部下に対しても同様です。
仕事能率が悪い部下に対して、「なんでこんな簡単な仕事ができないんだ」や「こいつは仕事ができないからもう任せられない」など考えるのは誰でもあることだと思います。
ここでも大事なのは、部下が仕事をできないという事実ではなく、なぜ仕事能率が悪いのか、どうしたら仕事ができるようになるのかを考え、指導することだと思います。
できない理由をいくらあげても前には進みません。
私は根っからのネガティブですが、だからこそこのような考え方を大事にし、意識しています。
「できない理由をさがすのではなくて、どうしたらできるのかを考える」
簡単なことではありませんが日々意識すると少しずつ前に進むことができると思います(^^)
理由なんていらない
おはようございます!
初の朝投稿になります(^^)
私は将来一軒家に住みたいです。
結婚もしたいです。
子供を授かりたいです。
幸せな家庭を築きたいです。
以前、好きや嫌いを疑うというテーマがありました。
それは、なぜ好きなのか理由を考えてしまうというもの。
先ほど挙げた私のなりたい将来像についても同じだと思います。
なぜ?と聞かれると困ってしまう。
しかし、ここに挙げた私の思いは揺るぎません。
これが自分自身の素直な気持ちというものなのかもしれません。
そうかんがえると、私の好きなことにも同じようなことが言えるかもしれません。
結局、理由なんていらないことばかりだった気がします。
以前の投稿と矛盾する内容ですが、今は理由なんていらないと思ってます。笑
朝日を浴びているせいか清々しい気持ちです。
夜になるとまた戻るかもしれません。笑
、、、ということは、朝型になると考え悩むことが少なくなる?
そんなことを考えてる今朝でした。
労働者と雇用者
こんばんはー
今夜は21時に就寝、翌日1時に起床という不思議な生活をしてしまったので、この時間の投稿になります。笑
電通の女性社員過労死が問題となっていますね。
私たちはメディア越しの情報しか得ることができませんので、どこまでが事実でどこからが過剰報道なのか分かりませんが、少なくとも電通の労働環境が労働基準を超えていることは間違いないみたいです。
「大企業に勤めたらこんなの当たり前だよ」といえばそれまでかもしれませんが、そこまで軽視していいようなニュースだとは思えません。
もしかしたら今回の事件がきっかけで、「私が自殺したら世の中の労働環境を変えられる!」と考える人が出てくるかもしれません。
これはよくないことですが、この先どうなるかは誰にも分かりませんよね。
今回は労働をテーマに少しお話したいと思います。
労働について考える際、私は二つの視点が大事だと考えています。
一つ目は労働者目線、もう一つは雇い主目線です。
ここまでのお話のほとんどは労働者目線でしたが、雇い主目線になるとどうでしょうか?
アルバイトを例に挙げますと、労働者目線だと時給が高くて楽な仕事がいいです。しかし、雇い主目線になると人件費が安く多くの仕事をしてくれる人の方がいいです。
お互いに意見は対立していますが、共通している点があります。
それはどちらも自分中心で物事を考えているということです。
自分中心に考えることは人間の本能であり、悪いことではありません。(性悪説をとれば話は別ですが笑)
私が言いたいのはどちらかが楽な方、得する方ばかり追求するともう一方が苦しくなり、損をするということ。
物事を自分ベースに考えることは必ずしも良いとは言えません。
「みんな苦しい中頑張ってるからお前も一緒に頑張ろう。」
「みんなが」というのは理由になりません。
「みんないじめられているのだからお前も今のいじめに耐えなさい。」と言っているのと一緒です。
自分がサービス残業しているから部下にもサービス残業させるのは理由になりません。
自分ベースに物事を考えすぎるとこのようなことになってしまいます。
アルバイトの話に戻しましょう。
労働者が自分中心で考えた場合、それは大して問題になりません。
どんなに時給が良くて楽なアルバイトをしていてもなんの問題もないでしょう。
しかし、雇用者の場合そうはいきません。
基準を下回る時給、労働条件を課すと法律で罰せられます。
どちらも自分中心で考えてるだけなのに、、、
いかに自分中心で物事を考えてしまっているのか、そしてそのことが他の人にどういう影響を与えているのか。
このことを理解し、周りに与える影響まで考慮し行動すれば、労働問題も少しは解消されるかもしれません。
問題指摘より解決策の提示を重要視する私ですが、今回はなんの解決にもならないお話になってしまいました。
今回は雇用者の立場に立つと、こんな考え方もできるよ!というお話でした。
好きや嫌いを疑う?
こんばんはー
今回はちょっと早めの投稿ですね。
みなさん、自分の好きや嫌いを疑ったことがありますか?
私はよくあります。
好きや嫌いを疑うとはどういうことかと言いますと、自分の好きな食べ物。
例えば、りんごが好きだとします。
「好きな食べ物は?」と聞かれるとりんごと答えるとします。
そんな時、「ほんとにりんごが好きなのだろうか?」と考えてしまうことです。
アホみたいですよね。笑
「好きに決まってるじゃん!」と思う方が多いと思います。
でも、私の場合、考えてしまうのです。
私はチョコレートが嫌いです。
みんなに人生半分損してると言われます。
あまりにも言われるのでたまに「ほんとにチョコレート嫌いなのか?」考えてしまい、一口チョコレートを口にします。
やっぱり美味しくありませんでした。
といった具合ですね。笑
さすがにチョコレートは何度も食べて何度も美味しくないと思ったので、もう疑うこともなく嫌いと言えますが。笑
他にも好きなスポーツ、好きな芸能人、好きな色など、私は考えてしまいます。
どういう時に考えるか。
それは、「なぜそれが好きなのか」と聞かれた時です。
今まで好きだと思っていたことを人に言葉で説明できず、その時に考えてしまうのです。
たぶん、私は感情より理屈で物事を考えてしまうため、このようなどーでもいいようなしょーもないことでも考えてしまうみたいです。笑
ある本には、「好きの内容は具現化できない。逆に、好きな理由を言葉で説明できたらそれは好きではない。」と書いてあり、そうなると私が今まで思っていた好きは全て本当に好きになってしまう。
そんなことはないですね。笑
ただ単に私の言語力不足だと思います。笑
今回はとても拍子抜けな内容でしたが、世の中にはこんな人もいるんだなーとでも思って読んでくれたらありがたいです(^^)
学生時代に勉強をしてきた理由
こんばんはー
最近は一日一日が長く感じます(^^)
とくに何かをしてるというわけではなく、 平凡な毎日ですが、本を読んだりしてるとなんか時の流れがゆっくりしている気がします。
私は小学校、中学校、高校時代、比較的勉強をしていた方だと思います。
あくまで私の主観ですので本当に勉強していたかどうかはとりあえず置いときます。笑
それではなぜ、勉強をしてきたのか。
うーん、なんでだろう?
自分でもよくわからないんですね。
勉強が好きでやってたわけではないですし、将来何かになりたい!と思っていたわけでもなく、言われるがままにやってきたという感じです。
最近アルバイト先の高校生に「勉強ができる人」と認識されることが多く、羨ましがられます。
しかし、私としてはそのように認識されることはあまり好きではありません。
というより、その高校生たちをみていると高校生活が非常に充実しているように感じ、私の方が羨ましく思う限りです。
その高校生たちは、やりたいと思ったことをやる!好きなことをする!楽しいことに飛び込む!といった印象を受けています。
もちろん、そこには多少のリスクがあると思います。
危ない道に足を踏み出さないか、学業を疎かにはしないかなどです。
私が学生時代に足りなかったものはそこだと思いました。
自分がやりたいと思ったことをやってみる、好きなことをとことん好きになる、バカみたいなことをバカになってやる。
自分の気持ちに自分で気づくことができず、その気持ちに応えることができなかったんだと思います。
だから、学校の先生や、親などが口を揃えていう「勉強しなさい」「将来のためだから」という言葉を、自分の意思とは関係なく受け入れてしまったのだと思います。
同じ勉強をしている人でも自分の意思に基づき勉強をしている人の方が得るもの、学ぶものが違うと思います。
もし、人生やり直せるなら、もう一度高校生、中学生、もしくは小学生に戻って、自分の気持ちに素直になって、活き活きとした学生生活を送りたいな〜と思います。
後悔をしているというわけではなく、振り返ってみるとこうだったな〜と思っているだけですので、特に憂鬱な気分になっているわけではありません。
ですのでご心配なく(^^)
過去を振り返ってみて、その時の気持ちや行動動機について考えるのも悪くはないと思います(^^)
理想と現実
こんばんはー
私は元々ネガティブなのですが、長い長い苦悩を経て、比較的ポジティブに物事を考えれるようになりました。
でも、今夜はなんだかちょっぴりネガティブに戻ってしまってます。
今私は家の前で缶コーヒーを飲みながら、物思いに更けております。
私が今現在、なにを目標にしているのか。どんな夢があるのか。これからどのような人生を歩んで行くのか。
そんなことを考えるとちょっぴりネガティブになっちゃいました。
ここ最近私は心が豊かな人とよくお会いし、お話をします。
そんな彼ら彼女らを見て、「私はなんてつまらない人間だ」と思うようになっております。
これまでの人生の多くを費やしてきた野球から離れ、はや5ヶ月が経とうかという状態です。
私がなぜ、ここまで野球を続けてきたのか。
自分にも分かりません。
私がなぜ、好きでもない勉強をして、大学進学を目指したのか。
それも分かりません。
なにか目標があって、ここまで努力してきたのだろう。
そう思うのですが、その目標がなんなのかも今の私には分かりません。
目標に向かってひたむきに努力し、目標を達成する。
仮にその目標が達成出来なかったとしても、その経験が次に繋がる。
それが私の理想でした。
しかし、現実はそうではなかったみたいです。
もしかしたら、私自身の考えの浅はかさ、自分に甘んじてた部分があったから、そう結果も出ないし、得るものもなかったのかもしれません。
だとしたら、なにがいけなかったのか。なにが足りなかったのか。どうすればよかったのか。次に繋がるなにかが見えてくるはずです。
それさえもわからない。
んー
なんてめんどくさい奴なんでしょう。
救いようがありませんね。笑
分からないなら分からないなりに分かろうとする努力をするべきですよね。
理想というのはただ単に「夢」とか「目標」という単純なものではなく、例えば、「努力を怠らなければ結果が出なくとも、人生の中で大きな経験となる」や「高い壁にぶち当たって乗り越えた分だけ成長できる」といった考え自体も理想だと言えると思います。
人が考えてることのほとんどは理想じゃないかなー
私はそう思います。
一方、現実は過去の全てだと思います。
特に意識してなくても現実は自然と認識できるものだと思います。
理想と現実をこのように捉えると、やはり、理想の方が圧倒的に不安定で、未知数で、恐怖でしかない。
現実の方がはっきりとしていて、分かりやすくて、安心する。
でも、
現実のベクトルは過去で、理想のベクトルは未来を向いている。
ポジティブでありたいなら、やっぱり理想を見るべきではないか、追いかけるべきではないか。
私は今、自分の理想が分かりません。
つまり、ベクトルが未来に向いていません。
でも、分からないということは、それ自体が不安定で、未知数であるから、理想に近い意味合いを持つのではないか。
こんなつまらないことを考えてる夜でした。笑
考えるの疲れたので、最後は綺麗な写真でも(^^)
ちなみに、これは六甲山からの景色ではありませんよ(^^)